浜田海上保安部沿岸域情報提供システム(MICS)
高島灯台

高島灯台


== 灯台の設置 ==
 高島は、島根県益田市土田町大浜漁港の沖12キロメートルの日本海に浮かぶ孤島で、浜田から益田に向かうJR山陰本線の車窓から見える。 周囲4キロメートル、面積39ヘクタール、東に標高117メートル、西に80メートルの峰を連ねて、平地はまったくない。島全体が潅木に覆われ、島の周囲は断崖で囲まれている。高島周辺は、古くから、好漁場として知られており昼間は好個の目標となる高島も夜になると船舶の衝突、乗り上げ等が頻発し石見の魔の海として恐れられていた。明治以降、山口県高山岬から島根県浜田港馬島に至る30数海里の間には灯台がなく昭和29年に魚待鼻灯台そして、昭和41年に待望の高島灯台が自家発電による90センチビーコンの大型沿岸灯台として建設されたのである。
 

== 高島の歴史 ==
  夕寒き  孤嶋に星を  数えけり   これは、石見地方(島根県西部)の俳壇の先達、近藤月村先生の句であり、孤島暮しの実感がよく表現された作品といわれている。 この不毛の孤島、高島に住まなくてはならない悲しい運命を背負った人々があった。 その移住の先人説として、「高島由緒」には、大永3年(1523年)、毛利元就の攻略に遭い、悲運を辿った出羽(島根県邑智郡)城主高橘(たかきつ)大九郎の一族が亡命漂着、この地を開拓したのが始まりとされている。 他に2,3の異説があるが、いずれも戦国武士の漂流説であり、時代もほぼ接近している。中世以来、人々は高島の南東部にある標高4,50メートルの僅かな傾斜地に住み、大自然の猛威と戦いながら僅かな耕地に甘藷、雑穀を作り、海藻、魚介類を採って 暮したのであった。この狭い高島は、生徳2年(1712年)にネズミの異常繁殖のため、耕作物に壊滅的被害を受け大飢饉に陥った。それ以来、島の人口が増えることを最も忌み嫌い、戸数を七戸以内とすることを不文律とした。高島は、もう一つの名を七戸島といわれ、「春潮や  神の置きたる  七戸島」と詠まれている。それ以後明治まで この七戸の掟は守られた。昭和に入って漸増し、最盛期の昭和35年には16戸、125人の人達が高島に住んでいた。昭和27年に電灯がともり同29年には村営(那賀郡 鎌手村)の定期船も就航し、ようやく文明の恩恵に浴することとなった。しかし、高度成長のもたらす僻地の過疎化の波には抗しきれず、昭和53年3月、全集落16戸が対岸の益田市土田町に集団移住するところとなり、約450年に及ぶ高島での生活の歴史に終止符がうたれた。




            高島灯台
    位置      34-5-07N
             131-50−18E
    光度      3,200カンデラ
    光達距離   11.5海里
    高さ       15m(地上から頂部)
              126m(水面から灯火)

== 「お伊勢」にまつわる話 ==
 高島にもこの世の常として悲しい女の物語が伝えられている。 それはいつ頃のことであったか、お伊勢という娘がいた。男性なら誰でも振りかえって見たくなる程の美しい娘であった。その美しい娘が対岸の津田という所から高島に嫁いで来た。新婚当初は、島の生活も楽しく珍しかったが、やがて荒涼たる孤島の暮しに 飽きてきた。望郷の念やみ難く、何とかして島を抜け出せないものかと毎日が気の狂わんばかりだった。しかし、荒海3里を隔てた孤島では如何ともし難いことであった。ある日、娘にふと妙案が浮かんだ。島の周囲は1里である、3周できれば対岸に渡れると考えた。天気のよいある日、試みに島の周囲を泳いでみたところ遂に3周することに成功、喜び勇んで前後のわきまえもなく、そのまま対岸に向かって泳ぎはじめた。しかし、 海を知らない女の悲しさ、日本海の潮流には勝てず、必至の力泳も空しく対岸まであと半里の岩礁にたどりついた時は、疲労と安堵感で気を失いそのまま息が途絶えた。その時は、淡い弦月の光が悲しく石見の海を照らしていたという。村人はお伊勢をたいそう哀れみ、この岩礁に「伊勢島」と名づけたそうである。それ以来、このあたりを月夜の晩を航海すると、もの悲しいお伊勢の呼ぶ声が聞こえてくると語り継がれている。
 



写真中央に薄黒く見えるのが伊勢島です

== 高島の今日 ==
  高島周辺は、釣りのメッカであり、多くの釣り人が島をおとずれるが、人々が住んでいた集落まで足を踏み入れることはない。それでは、灯台へ向かって進んでみよう。島の南東部の崖下、唯一の船着場から椿の巨木群をくぐり5分程登ると集落跡に至る。山口県高山方面から吹きつけるヨコニシの風と南からのハエの風に耐えて、ひっそりと軒を寄せ合いながら抱き合うように暮してきた家々の壁は崩れ、軒は傾いて廃墟と化し、自然に帰ろうとしている。灯台への路は、部落を抜け竹やぶに入るが、左手にみえる崩れかかった文教場が哀れを誘う。ふと立ち止まり校舎を眼にすると、不便な生活のなかでもたくましく生きた島の子供達の元気な笑い声が聞こえてくるような錯覚を覚える。路は瘠せ尾根を通り樹木がぽっかりとひらけた高台に出る。さらに進み、最後の椿のトンネルを抜けると、目前に白亜の高島灯台が現れる。船着場より15分、約800メートルの山道である。灯台に登って対岸を望むと、西は高山岬(山口県須佐町)から益田市に至る長汀が美しい孤を描き、背後には山口県境との山々が連なって見える。正面に魚待鼻灯台が白く輝き、源田山から大麻山にいたる山魂の裾を石見潟の波が洗い、青松を頂く奇岩が点在して、しばし忘我の境に遊ぶ心持ちである。 高島灯台は、昭和51年11月、自家発電から太陽電池を光源とした灯台に改良され、光力は低下したが、高島周辺を航行する船舶の安全を願い、毎夜明かりを灯しつづけている。



文教跡




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