浜田海上保安部沿岸域情報提供システム

馬島灯台


 浜田漁港から約2Km沖合い、浜田港の入口に位置するのが馬島である。全島が緑に覆われているが、名前の由来は、馬島はかって馬を放牧していたことにあるという。 その西北端にあるレンガ造りの白亜の灯台が馬島灯台である。灯台から西方を見渡すと日本海の大海原を望むことができる。

== 時代背景 ==
 馬島灯台が点灯した当時、山口県から島根県に到る沿岸には角島灯台が点灯していただけで、まさにダ-クシ-の世界であった。
 浜田港は地理的条件に恵まれていたため国鉄山陰本線未開通の当時は、瀬戸ケ島に桟橋を設け、これに大阪商船等の定期船が発着して九州関門方面および阪神方面、瀬戸内海沿岸との貨客の交流が盛んに行われ、朝鮮貿易も盛んであったため、明治29年10月に開港外貿易港に指定され、浜田神戸税関出張所が設置された。このような時代背景のなか浜田港に入港する船にとって灯台の必要性が必然的に高まり、港の入口にあたる馬島に灯台が建設されたのは、自然の流れであったと想像される。浜田港は馬島灯台が建設された翌年の明治32年8月に開港に指定され、以後、貿易に伴う外国船の入港は大正の初めまで飛躍的に増加することとなる。 






== 馬島灯台の歴史 ==
  経歴簿によると馬島灯台として明治31年3月28日発足、灯台は、第5等連閃白色燈、煉瓦造円形白色、光源は小型二重芯火口石綿燈芯(石油)、燭光数四千五百、光達距離16海里とあり、国産の水銀槽式回転機械を始めて使用した灯台でもある。
  馬島灯台勤務者への最初の辞令は、明治31年3月20日付で首員心得、同年5月7日に補員1名が発令され2名体制で馬島灯台の管理がなされていたが、翌32年12月から3名体制となっている。馬島と本土との往来には天馬船が利用されていたが、天馬船からエンジン付の船に変わったのが、昭和24年11月で3馬力の発動機を取り付けたとある。エンジン付の船となるまで水夫が採用されていることから天馬船の操船を担い、食料の買い出しなど職員の生活に欠かせない重要な責を負っていたが、特に荒天が続く冬季は、本土との行き来も容易でなく生活物資も底をつくような困窮した生活を強いられたことも想像される。船着場は島の南東側にあったが灯台用地として現在も残っている。
 灯台の光源は大正7年5月、小型ニ重心からルックス式白熱灯となり光力は一万八千燭光、光達距離16.5海里と大きくアップしている。ルックス式白熱灯も昭和5年9月に乙式白熱灯に改良され、昭和30年2月の電化(自家発電装置)に伴い、LB型、さらに平成元年3月にLB−H型となり、電球はハロゲンとなり現在に至っている。馬島灯台時代(明治31年3月から昭和28年7月)の管理標識の変遷は、昭和24年4月に浜田市から浜田港第二防波堤灯台が公設移管され、同年11月には、浜田航路灯浮標が新設されて馬島灯台を含め3基の管理となっている。また、昭和25年5月には仁万港東防波堤灯台が出雲日御碕灯台から管理換、同じく大岬灯台が地元五十猛町から、同年10月には櫛島灯台(現温泉津港灯台)が公設移管され馬島灯台での管理が始まっている。昭和28年5月、大岬灯台は改良され、仁万港東防波堤灯台、櫛島灯台(現温泉津港灯台)とともに、移管と記載されており、その一周間前に馬島灯台長が大岬灯台へ赴任している。
 馬島灯台は、昭和28年8月1日馬島航路標識事務所と改称、昭和41年4月1日に 現在の浜田無線方位信号所に移転、浜田航路標識事務所と改称し馬島灯台の直接管理は 幕をおろすこととなる。その後、浜田航路標識事務所は、昭和43年12月に日脚町に 移転、平成13年4月には浜田、大田、大社の3航路標識事務所は、浜田海上保安部に 統合され現在に至っている。
 馬島灯台は、時代の変化とともに、人、組織、機器は変化したが、変わることなく火 を灯しつづけ、船舶の安全を見守っている。


         馬島灯台

構  造    レンガ造り(白色)

光  度    27万カンデラ

光  達    16.5海里(約30キロメートル) 

明  弧    357度から229度

レ ン ズ    40センチビーコン

灯質群閃白光  毎12秒に2閃光

設置年月日   明治31年5月1日

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